『孔子家語』現代語訳:好生第十(5)

孔子家語・原文

1

孔子謂子路曰:「見長者而不盡其辭,雖有風雨,吾不能入其門矣。故君子以其所能敬人,小人反是。」

2

孔子謂子路曰:「君子以心導耳目,立義以為勇;小人以耳目導心,不愻以為勇。故曰:退之而不怨,先之斯不從已*。」

*和刻本「先之可從已」に作る。藤原本「この章もと前章に連なる。いま蜀本に従って別章となす」

3

孔子曰:「君子有三患。未之聞,患不得聞;既得聞之,患弗得學;既得學之,患弗能行。有其德而無其言,君子恥之;有其言而以無其行,君子恥之;既得之而又失之,君子恥之;地有餘*而民不足,君子恥之;眾寡均而人功倍己焉,君子恥之。」

*藤原本によって餘を補う。

孔子家語・書き下し

1

孔子子路に謂いて曰く、「長者を見其のことばを盡くさ不らば、風雨有りと雖も、吾れ其の門に入る能わ不る矣。故に君子は其の能き所を以て人を敬い、小人は是に反く。」

2

孔子子路に謂いて曰く、「君子は心を以て耳目を導き、義を立て以て勇みを為す。小人は耳目を以て心を導き、ゆずら不して以て勇みを為す。故に曰く、之れ退き而怨ま不、之れ先んじてすなわち從わ不るのみと。」

3

孔子曰く、「君子に三つのうれい有り。未だ之れ聞かずして、聞く得不るを患うる。既に之を聞くを得て、得て學ば弗るを患える。既に之を得て學び、能く行わ弗るを患える。其の德有り而其の言無きは、君子之を恥づ。其の言有り而以て其の行い無きも、君子之を恥づ。既に之を得而又た之を失うは、君子之を恥づ。地の餘り有り而民の足ら不るは、君子之を恥づ。眾寡均しくし而人の功しあるに己に倍したるは、君子之を恥づ。」

孔子家語・現代語訳

1

孔子が子路に言った。「人格者のお目にかかっても、丁寧な言葉で話せないと、例えば雨宿りの時に、お屋敷の中に入れて頂けない。だから君子たる者は、人の長所に目を付けて敬い、丁寧に話すが、つまらない人間はそうしない。(偉そうにものを言いたがる。)」

2

孔子が子路に言った。「君子たるもの、心が耳や目などの感覚を導くべきだ。だから筋が通る時にだけ、勇気をふるう。つまらない人間は、耳目に心が振り回され、うぬぼれから勇気をふるう。だからこういう言葉がある。後回しにされても恨まない、先に立たされるのを受け入れない、(用心して控えめにする)と。

3

孔子が言った。「君子たるもの、三つの心配事がある。未だ知らない世の良い話を、まだ聞けないこと。やっと聞いた良い話に、学べないこと。どうにか学んだことを、実行できないことだ。

(そこから話を応用すると、恥ずべき事は五つある。)何かの能力を身につけながら、黙っているのは君子の恥だ。出来ると口に出したことを、実行できないのは君子の恥だ。身につけたことを、出来なくなってしまうのは君子の恥だ。支配地は広いのに、人口が少ないのは(為政者として)君子の恥だ。同じ人数を動員しながら、誰かが自分の倍、実績を上げてしまったのは、君子の恥だ。」

孔子家語・訳注

1

長者:人格者。

盡(尽)其辭(辞):「尽言」だと”歯に衣着せずに言う”ことだが、「辞」には”挨拶”の意があり、正しい言葉で丁寧な心のやりとりをすること。

雖有風雨:風や雨があっても。風雨を避ける必要があっても。

入其門矣:文脈から、雨宿りさせて貰う。最後の「矣」の原義は、人の振り返った姿、または「アイ」という感嘆の言葉で、”まったく~ということだよ”という語気を表す。
論語 矣 字解

君子以其所能敬人:君子は人の長所を見つけて敬う。宇野本は”ふだん自分にできることを行って、人を尊敬して接する”と訳している上に、下記するように訳に音を上げているが、おそろしく稚拙と言うべきでは無かろうか。

小人反是:つまらない人間はそうしない。中国的論理には、逆裏対偶などの数理的な合理がないので、”逆である”・”裏返しである”と訳すのは、慎重にならざるを得ない。

2

耳目:おそらくは聴覚視覚以外の感覚を全て含めて代表させているのだろう。

義:すじ。筋目。『学研漢和大字典』による原義は、我=刃物で形よく切り分けられた、羊=おいしいヒツジ肉のことで、かど目・筋目を意味するという。

愻;従う。また遜(ゆずる)に通じる。

退之而不怨:後回しになっても恨まない。ここでの「之」は「先之」と共に、直前が動詞であることを示す記号で、意味内容を持っていない。従って「これ退ける」と読まず、区別して「これ退く」と読んだ。「之」が目的語ではないからである。

先之斯不從已:「斯」は「すなわち」と読んでも「これ」と読んでもかまわない。”~なら~”の意。和刻本にある「先之可從已」が正しいとすると、「これ先んじて従う可きのみ」と読み下す。

その解釈は二通りあり、”先に立ったなら(その上状況に)素直に従って先導するのがよい”と訳者なら訳すが、宇野本は”人が自分より先手を打ったなら従うだけのこと”と訳している。「先之」は「退之」の対句なのだから、”人が自分より先手を打った”と訳すのは変だと思う。

3

未之聞:この「之」も直前が動詞であることを示す記号で、意味内容がない。

有其德而無其言:能力がありながら黙っている。「徳」の原義は”能力”。某訳本のように、”徳”のまま訳したようで解釈を読者にまかせるような訳は、訳の資格が無いと思う。「私には漢文の読解能力がありません」と白状するようなものだからだ。「君子恥之」とはこのことだ。

地有餘而民不足:「地有餘」は”土地が余裕を持っている”ということで、”土地が広い”。「民不足」は”民が足らない”ということで、”人口が足りない”。それらを「而」という並列の接続詞で繋いだ形で、「地」「民」が主部。

地~君子之恥:領地、または行政担当地域が広いのに人口が足りないのは、君子の恥だ。ここでの「君子」は、為政者としてのそれとして解さないと文意が取れない。”お前の政治がよろしくないから、民が逃げ散るのだ、それは恥だぞ”と言っている。

眾寡均:「眾寡」=「衆寡」(数量の多い少ない)。何の「数」が「ひと」しいかによって解釈が変わるが、ここでは動員人数と解した。

人功倍己焉:他人の功績が倍になってしまった。「焉」は”終える・終わる”ことで、”結果として~となってしまった”の意。

孔子家語・付記

1は珍しいことに、オリジナルと思われる。宇野精一・新釈漢文大系『孔子家語』に、「この段は、典拠なし」とあるのはよろしいとして、「この文も前段と同じく、不明瞭な文章で、何か誤謬があるかも知れない」などと、東大名誉教授が情けないことを記している。

種明かしをすると、この手の漢文の訳本は九分九厘、教授先生が学生院生をコキ使いその成果を横取りし、前書きしか自分で書かず、自分で訳さない。だからこんにちこの手の本を参照する場合、書き手に学識があるとは限らず、訳がでたらめである可能性を見込まねばならない。

とりわけこの『孔子家語』訳本の場合、前書きも書いていないことを白状している。初版が平成8年だから、宇野博士は89歳。監修を含め、自分で作業できる年齢ではすでにない。ついでに言えば博士の父は、同じく東大名誉教授で新釈『論語』の著者の宇野哲人。
論語 宇野哲人

ただし解説の九分九厘は、朱子のコピペで済ませた人である。精一博士の子息・宇野茂彦氏は、名大・中大教授を務め、令和の改元に当たって、元号候補の発案者の一人だというが、縁故で利権を握った仕事嫌いほど、その業界を衰えさせる者はいない。

2は『説苑』談叢篇をふくらませたもの。

禍生於欲得,福生於自禁;聖人以心導耳目,小人以耳目導心。災いは欲に目が眩むから起き、幸いは禁欲から生まれる。だから万能の人は心で感覚を制御し、つまらぬ人間は感覚で心を振り回す。

3は『礼記』雑記下篇のコピペ。

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