孔子家語・原文
1
孔子曰:「吾於《甘棠》,見宗廟之敬也甚矣。思其人,必愛其樹;尊其人,必敬其位,道也。」
2
子路戎服見於孔子,拔劍而舞之,曰:「古之君子,固以劍而自衛乎?」孔子曰:「古之君子,忠以為質,仁以為衛,不出環堵之室,而知千里之外。有不善,則以忠化之;侵㬥則以仁固之,何待劍乎?」子路曰:「由乃今聞此言,請攝齊以受教。」
3
楚恭王出遊,亡烏嘷之弓,左右請求之。王曰:「止。楚王失弓,楚人得之,又何求之?」孔子聞之曰*:「惜乎其不大也!不曰:人遺弓、人得之而已,何必楚也!」
*和刻本により曰を補う。
孔子家語・書き下し
1
孔子曰く、吾れ甘棠於、宗廟之敬い也甚だしきを見矣り。其の人を思わば、必ず其の樹を愛し、其の人を尊ばば、必ず其の位を敬うは、道也。」
2
子路戎服して孔子於見え、劍を拔き而之れ舞いて曰く、「古之君子、固より劍を以てし而自ら衛る乎」と。孔子曰く、「古之君子、忠以て質を為し、仁以て衛りを為し、堵を環らしたる之室を出で不、し而千里之外を知る。善から不る有らば、則ち忠を以て之を化う。侵し㬥るるあらば、則ち仁を以て之を固る。何ぞ劍を待たん乎」と。子路曰く、「由乃今や此の言を聞けり、請うらくは齊を攝げて以て教えを受けん」と。
3
楚の恭王、出でて遊ぶに、烏嘷之弓を亡う。左右之を求むるを請う。王曰く、「止めよ。楚王弓を失いて、楚人之を得ん。又た何ぞ之を求むるや」と。孔子之を聞いて曰く、「惜しい乎、其の大なら不る也。人弓を遺して、人之を得る而已と曰わ不。何ぞ必ずしも楚ならん也」と。
孔子家語・現代語訳
1

孔子が言った。「私は『詩経』召南篇の甘棠の歌を見るたびに、どんなに先祖の御霊が敬われたか見て取る。その人を思う時、必ずゆかりのある樹を愛し、その人を尊ぶ時、必ずゆかりの場所を敬うのは、この世の原則にかなった行いだ。」
2

(入門前の)子路が武装して孔子に会い、剣を抜いて舞い、言った。「昔の君子は、本来剣で自分の身を守ったのでしょうか。」
孔子「昔の君子は、もともと義理堅くてそれが習い性になっており、思いやりを身を守るすべとした。狭い部屋に引き籠もりながら、それでいて千里四方の事情に通じた。出来の悪い者も、真心を込めて教えた。暴れ者が踏み込んできても、思いやりで我が身を守った。剣など要らなかったのだ。」
子路「私めはたった今、このようなお話を伺いましたからには、どうか先生のお弟子の一人にお加え下さい。」
3
楚の恭王が野遊びをして、国宝級の弓を落とした。家臣どもが探そうとすると、王は言った。
「止めておけ。楚王のわしが弓を落とし、楚の民が拾うのだ。どちらも同じ楚人ではないか。探すまでもあるまい。」
孔子がこれを聞いて言った。「ケチくさいのう。人が落として人が得る、とは言わなんだ。楚に限る必要がどこにあろう。」
孔子家語・訳注
1
甘棠:果樹の名、やまなしの類、からなし。また『詩経』の篇名と『大漢和辞典』にある。
『学研漢和大字典』によると「甘棠之恵」という言葉がある。立派な政治家に対する敬愛の情。周の召公が善政をしいたので、召公がその下で休んだ甘棠の木を、人民が大切にしたという。下記『詩経』召南・甘棠から、とある(訳は平凡社中国古典文学大系から)。
蔽芾甘棠、勿翦勿伐、召伯所茇。
(こまやかに茂るやまなしや 枝も剪るなよ木も伐るな 召伯様のお舎り所)
蔽芾甘棠、勿翦勿敗、召伯所憩。
(こまやかに茂るやまなしや 枝も剪るなよ木も折るな 召伯様のお休み所)
蔽芾甘棠、勿翦勿拜、召伯所說。
(こまやかに茂るやまなしや 枝も剪るなよ根も抜くな 召伯様のお泊まり所)
2
子路:孔子の弟子で孔門十哲の一人、仲由子路のこと。由はその本名。
戎服:軍服・軍装(を着る)。武装する。「戎」の原義は、戈(カマ状のほこ)+甲(よろい)。

舞之:ここでの「之」は、「拔劍」と対にするために「舞之」と二文字に揃えたのであり、直前が動詞であることを示す記号であって目的語では無く、意味内容を持たない。「之を舞いて」と読んでいる訳本があるが、誤りである。
忠以為質:ここでの「以」は動詞・前置詞の「もって」ではなく、前を後ろへ繋ぐ接続詞「もて」。この場合、意味は前置詞と同じく”~で”と訳してもかまわないが、微妙に言い廻しの違いがある。
以忠為質(誠実さを、自分の性格にしている)
環堵:四方が一堵ずつしかない土塀。また、転じて、せまい家のこと。「堵」はへいの大きさの単位。一堵は両側を長さ一丈(または六尺)、幅二尺ほどの板ではさみ、その間に土を詰めて固める工事=版築によってつくったものを五枚の高さまで築いた大きさ。
乃今:「乃に今」の意で、たった今、このごろ。
攝齊:「齊」はもすそ(スカートの裾)、「攝」は掲げる。古代中国では、士族以上は長衣を着て、その上から裳(スカート)をつけた。師匠の席には、裳裾を引き上げながら上がるのが礼儀だったと言う。

3
楚恭王:共王。位BC591-BC560。荘王の子。荘王によって強大化した楚を受け継いだが、死去に際して「自分は暗君だったから、おくり名は霊か厲にせよ」と言い残した。よく自分を知った君主だという事で、恭と同音同義の共王とおくりなされたという。
わざわざ恭王と記したのは、共王を褒め称えるのでなければ、ウンチクを誇るためと考えられる。
なお共王の家臣には、弓の名手として知られた養由基がいた。
烏嘷之弓:=烏号之弓。宝物級の弓のこと。伝説上の中国の開祖・黄帝が、天上に去ったのを人々が嘆き、黄帝の弓を抱いて号泣したことから名付けたという伝説がある。
孔子家語・付記
1は『説苑』貴徳篇のコピペ。日本で言えば、西行法師の腰掛け石とか、弘法大師が突いた杖の跡とかのたぐいだろうか。
2も『説苑』貴徳篇のコピペ。
なお「舞之」についてだが、漢文業界ではこうした無意味な「之」を読むくせに、意味内容のある「焉」などを「置き字だ」と言って読まない。古人の言うことを無批判に飲み込むから、こういうおかしな事になる。メシの種に障るからだろうが、臆病もたいがいにした方がいい。
だから殻の外の世間ががらりと変わって、漢学など無用の長物として誰にも価値を認められなくなり、結局メシの種に困るのである。
3は『呂氏春秋』貴公篇、『説苑』至公篇のコピペ。『説苑』ではうしろに「仲尼所謂大公也」(孔子様はもっと大きな共存を言ったのだ)がくっついている。