孔子家語・原文
1
子貢觀於魯廟之北堂,出而問於孔子曰:「向也,賜觀於太廟之堂,未既輟,還瞻北蓋,皆斷焉。彼將有說邪?匠之過也。」孔子曰:「太廟之堂,官致良工之匠,匠致良材,盡其工巧,蓋貴久矣,尚有說也。」
2
孔子曰:「吾有所恥,有所鄙,有所殆。夫幼而不能強學,老而無以教,吾恥之;去其鄉,事君而達,卒遇故人,曾無舊言,吾鄙之;與小人處而不能親賢,吾殆之。」
3
子路見於孔子。孔子曰:「智者若何?仁者若何?」子路對曰:「智者使人知己,仁者使人愛己。」子曰:「可謂士矣。」子路出,子貢入。問亦如之,子貢對曰:「智者知人,仁者愛人。」子曰:「可謂士矣。」子貢出,顏回入。問亦如之,對曰:「智者自知,仁者自愛。」子曰:「可謂士君子矣。」
孔子家語・書き下し
1
子貢魯於廟之北堂を觀、出で而孔子於問うて曰く、「向也、賜太廟之堂於觀るに、未だ既さずして、輟めて還りて北の蓋を瞻れば、皆な斷たれ焉。彼れ將說有らん邪。匠之過なる也」と。孔子曰く、「太廟之堂は、官良き工之匠を致し、匠良き材を致し、其の工巧を盡くす。蓋の貴きや久しき矣、尚ず說有る也」と。
2
孔子曰く、「吾れ恥ずる所有り、鄙しむ所有り、殆ぶむ所有り。夫れ幼くし而強いて學ぶ能わ不らば、老い而以て教うる無し、吾れ之を恥づ。其の鄉を去りて、君に事え而達り、卒えて故ある人に遇いて、曾ち舊の言無し、吾れ之を鄙む。小人與處り而賢きに親む能わ不、吾れ之を殆む」と。
3
子路孔子於見ゆ。孔子曰く、「智者は若何。仁者は若何」と。子路對えて曰く、「智者は人を使て己を知らしめ、仁者は人を使て己を愛せしむ」と。子曰く、「士と謂う可き矣」と。子路出でて、子貢入る。問うこと亦た之の如し。子貢對えて曰く、「智者は人を知り、仁者は人を愛す」と。子曰く、「士と謂う可き矣」と。子貢出でて、顏回入る。問うこと亦た之の如し。對えて曰く、「智者は自ら知り、仁者は自ら愛す」と。子曰く、「士君子と謂う可き矣」と。
孔子家語・現代語訳
1
子貢が魯国の祖先祭殿の北堂を見物し、帰ってから孔子に問うて言った。
「さきほど私は祭殿の建物を見物しましたが、見物の途中で帰ってきました。というのは北の扉を見上げると、みな縦に断ち切られていたからです。これにはきっといわれがあるのでしょうか。それとも大工がしくじったのでしょうか。それを知りたくて戻ったのです。」
孔子が言った。「国の祭殿の建物は、政府が腕利きの職人を集め、職人はよい材木を集め、技術の限りを尽くすものだ。扉はずっと昔に立派に作ったはずだから、何か必ずいわれがあるに違いないよ。」
2
孔子が言った。「私には恥じることがある、見下げることがある、気がかりになることがある。
それというのは、幼いうちに一生懸命勉強できなければ、老いてから人に教える事が無い。私はこれを恥じる。
ふるさとを出て、主君に仕えて出世して、仕事を辞めた後で昔の知人に会った時、なんと偉そうに振る舞って、昔のような口の利き方をしない。私はこれを見下げる。
バカ者ばかりとつるんでいて、賢い人と付き合えない。
私はこれらを気がかりに思う。」
3
子路が孔子と対座した。孔子が言った。「智者とは何だ。仁者とは何だ。」子路が応えて言った。「智者は他人自身を知るように他人を仕向け、仁者は他人自身を愛するように他人を仕向けます。」先生が言った。「お前にはひとかどの人物と言われる資格がある。」
子路が去って、子貢が来た。孔子が同じように質問した。子貢が応えて言った。「智者は他人を理解し、仁者は他人を愛します。」先生が言った。「お前にもひとかどの人物と言われる資格がある。」
子貢が去って、顔回が来た。孔子が同じように質問した。応えて言った。「智者は自分で悟り、仁者はもともと人を愛します。」先生が言った。「お前はひとかどの人物だし、そのうえ人格者だ。」
孔子家語・訳注
1
子貢:孔子の弟子で孔門十哲の一人、端木賜子貢のこと。賜は子貢の本名で、孔子など目上に対する自称、または目上からの呼び名。
向也:以前。「さきに」と読み下す習慣になっている。
既:尽くす。
輟:止める。
未既輟:直訳すれば”~し尽くさないでやめる・途中で止める”。おそらくは、子貢が珍しい光景を見て、そのわけを知りたさに途中で帰ってきた、ということを示しているのだろうが、下記の通り原文の情報が壊れているので、素直に訳すと意味が分からない。
瞻:見上げる。
蓋:元ネタである『荀子』に付けられた注以降、扉のことであると古来解する。
斷:切られている。『学研漢和大字典』によると、同じ切るでも上下にスパリと切ることだという。
しかし元ネタである『荀子』宥坐篇の記述だと、よく似てはいるが「繼(継)」という、意味が正反対の字になっており、切った木材を接いで扉が出来ている、という話になっている。
「さきほど私が祭殿の北堂を見物した際、全部見終わらないうちに、振り返ると九カ所の扉が全部接いであるのを見ました。これにはいわれがあるのでしょうか。大工が間違えて切ってしまったのでしょうか。」
孔子が言った。「一国の祖先祭殿であるからには、大いにいわれがあるぞよ。政府は腕利きの大工を集め、装飾を華麗に施した。長さが間に合う木材が無かったのでは無い。おそらく、巧みに材木を接いだ模様を尊んだのだ。」
將(将)~邪:「はた~や」と読んで、”~でしょうか、それとも”の意。
蓋貴久矣:『荀子』では「蓋曰貴文也」とあり、この「蓋」は「けだし」と読んで”思うに・おそらく”の意味でないと通じないが、ここでは”扉”と理解しないと文意が通じない。「久」もおそらくは『荀子』の「文」を書き写し間違えたもの。
ここまで元のデータが無残に壊れてしまった、あるいは意図的に壊されてしまった文章を、まじめに読むのは馬鹿馬鹿しくなってくる。
尚:必ず。
2
鄙:いやしい、いやしむ。
殆:危ない、危ぶむ。
夫:そもそも。さて。というのは。
卒:終える。”たまたま”の意にも解せるがここでは退職のことと解した。
故人:知人。古い知り合い。
曾:ここでは「すなわち」と読んで、”なんとまあ”という詠嘆の意に解した。
舊(旧)言:昔ながらの言葉。
3
子路:孔子の弟子で孔門十哲の一人、仲由子路のこと。
若何:訓読みすれば「何の若きか」=どうであるか。内容・状態を問うときのことば。いかが。「いかんぞ」と読む場合は、理由を問うときのことば。どうして。「いかんせん」と読む場合は、処置・手段を問うときのことば。…をどうしようか。
「●何」系
何のようにすればいいか。なぜ。ただし、「何●」と同じく、状態をも問う。 |
「何●」系
何がそのようであるか。事実や状態を問う。 |
云何:疑問をあらわすことば。いかに。如何。
奈何: 如何: 若何: 若為: 那何:いかに。どのように。=奈何・如何。 |
何如・何奈・何若・曷若:事実や状態を問うことば。どうであるか。
奚若:どのようか。どんなであるか。事実や状態を尋ねる疑問詞。「殺天子之民、其罪奚若=天子の民を殺さば、其の罪はいかん」〔孔子家語・六本〕 |
謂:同じ「いう」でも、評論する、評価するの意味を持つ。
士:ここでは、ひとかどの人物、教養人。
顏(顔)回:孔子の弟子で孔門十哲の一人、顔回子淵のこと。
士君子:士より一段上の人物。士の上位互換、あるいはアップグレード版程度の意味。
孔子家語・付記
1・2は『荀子』宥坐篇のコピペ、3は同じく子道篇のコピペ。どうせコピペするなら、まじめに書き写せばいいものを、繼→斷などは、書き間違えたのか書き換えたのか、1は何を言っているのか分からない文章になっている。以下、『孔子家語』が元からそうだった前提で記す。
このワケわからなさは、『孔子家語』の創作者である王粛も、重々分かっていただろうが、あえて放置し、または一層難解にしたのは、分からないからこそ有り難いという、まるでお経のような効果を持たせるためだったことは、ほぼ疑いない。
世の訳本のたぐいでは、元ネタを無批判に受け入れて、斷を繼の誤字であるとし、「扉が接いである」などと訳す場合があるが、『孔子家語』を偽作するような王粛なら、意図的に書き換えたと考えても不思議は無い。
王粛の仕えた魏王朝は、たった45年しか保たなかったし、その没後9年の後に司馬氏の晋に取って代わられた。また王粛が25の年までは後漢王朝が続いており、身につけた雰囲気というものは、その年齢ごろまでに染まるだろう。寿命の短い古代ならなおさらだ。
後漢の学問の雰囲気を、ひと言で言えば偽善に尽きる。絵空事が流行するのだ。その雰囲気を恐らく、若き日の王粛は苦々しいものと考えたのだろう。後漢の雰囲気を引き継いだ何晏一派と異なり、王朝の顧問官としてはけっこう実践的でまともなことを言っている。
ただし自分が現実的であるのと、世間がそうである事の違いは大きい。加えて三国時代は倫理的な崩壊期で、親子兄弟を含めて誰一人信用できない時代だった。それだからこそなのだろうか、世の中国人は保身と実利に徹したが、学問には空想的な何かを求めた。
情けをかけることが、即、自分の死につながる世界。1800年前の中国に、そうしたけしきが確かにあった。中国人は日常に耐えきれなくなり、薬学を兼ねた老荘思想には即効性のあぶないクスリを、儒教のような非実用的な学問には、救いとか、遅効性の清涼剤の役割を求めた。
王粛はそれを感じ取り、ワケわからない本を創作したのだ。これも中華文明の神髄である。
なお2の言う、「故ある人に遇いて、曾ち舊の言無し、吾れ之を鄙む」は、どうやら中国での道徳の一つらしい。史実の孔子が説いた道徳とは、別段深遠な哲理を伴った話では無く、悪いことをするなとか、弱い者はいたわれとか、そうした足が地に着いたお説教だった。
古いなじみを大事にしろ、というのもその一つであるらしい。ただし現実の中国世界は、出世に伴って友を替え、妻を代えるのが当たり前だったからこそ、「糟糠の妻」などという美談も出来た。『史記』陳渉世家に記された失敗談は、それを踏まえた話なのかも知れない。