孔子家語・原文
曾子曰:「敢問何謂三至?」孔子曰:「至禮不讓而天下治;至賞不費而天下士說;至樂無聲而天下民和。明王篤行三至,故天下之君可得而知,天下之士可得而臣,天下之民可得而用。」
曾子曰:「敢問此義何謂?」孔子曰:「古者明王,必盡知天下良士之名;既知其名,又知其實,又知其數及其所在焉。然後因天下之爵以尊之,此之謂至禮不讓而天下治。因天下之祿以富天下之士,此之謂至賞不費而天下之士說。如此,則天下之名譽興焉,此之謂至樂無聲而天下之民和。故曰:所謂天下之仁者,能合天下之至親也;所謂天下之明者,能舉天下之至賢者也。此三者咸通,然後可以征。是故仁者莫大乎愛人,智者莫大乎知賢,賢政者莫大乎官能。有土之君,修此三者,則四海之內,共命而已矣。夫明王之征,必道之所廢者也。是故誅其君而改其政,弔其民而不奪其財。故明王之政,猶時雨之降,降至則民說矣。是故行施彌博,得親彌眾,此之謂還師衽席之上。」
孔子家語・書き下し
曽子曰く、「敢えて問う、何をか三至と謂う」と。孔子曰く、「礼の至りて譲ら不而て天下治まり、賞の至りて費さ不而て天下の士説び、楽の至りて声無く而て天下の民和するなり。明王篤く三至を行う、故に天下之君得而知る可く、天下之士得而臣たる可く、天下之民得而用る可きなり」と。曽子曰く、「敢えて問う、此の義何を謂うか」と。孔子曰く、「古者明王、必ず尽く天下の良士之名を知る。既に其の名を知りて、又た其の実を知り、又た其の数及び其の在る所を知れ焉(り)。然る後、天下之爵に因りて以て之を尊ぶ、此れを之れ礼の至りて譲ら不而て天下治ると謂う。天下之禄に因りて以て天下之士を富ます、此れを之れ賞の至りて費やさ不而て天下之士説ぶと謂う。此の如からば、則ち天下之名と誉れ興り焉(なん)、此れを之れ楽の至りて声無く而て天下之民和すと謂う。故に曰く、天下之仁者と謂う所,能く天下之親の至るを合わす也。天下之明なる者と謂う所、能く天下之賢に至れる者を挙ぐ也。此の三者咸な通じて、然る後以て征(いくさ)す可し。是の故に仁者(は)人を愛する乎(より)大なるは莫く、智者賢を知る乎大なるは莫く、賢政者能を官(つか)えしめる乎大なるは莫し。土之君有るは、此の三者を修むれば、則ち四海之內、命を共に而て已(やむ)矣(なり)。夫れ明王之征するは、必ず道之廃れる所の者也。是の故に其の君を誅し而其の政を改め、其の民を弔(いた)み而其の財を奪わ不。故に明王之政は、猶お時の雨之(これ)降れり、降りて則ち民の説ぶに至り矣(なん)。是の故に施しを行うに弥〻博く、親しみを得るに弥〻眾く、此を之れ、師を衽席之上に還すと謂う。」
孔子家語・現代語訳
〔承前〕
曽子が言った。「どうかお教え下さい、三至とは何ですか。」
孔子が言った。「最高の礼法とは、へりくだらなくても天下が治まり、最高の褒美とは、財貨を費さなくても天下の士が喜び、最高の音楽とは、音が無くても天下の民が和むものだ。明王は篤くこの三至を行った。だから天下の諸侯はこの三つを得て国を治め、天下の士族は三つを得て家臣として仕え、天下の民は三つを得て動員することが出来る。」
曽子が言った。「どうかお教え下さい、その具体的な内容は何ですか。」
孔子が言った。「古の明王は、天下の良き士族の名を必ず全て知っていた。その名を知って、さらにその能力人格を知り、またその数や住む所を知っていた。そうなった後で、やっと天下の爵位に従ってその士族は尊ばれた。
これを最高の礼法、へりくだらないで天下が治ると言う。天下の税収を使って、天下の士族を富ませた、これを最高の褒美、財貨を使わないで天下の士族を喜ばせると言う。こうなれば、天下の名声と名誉がきっと盛んになる、これを最高の音楽、音が無くても天下の民が和むと言う。
だから言われたのだ。天下で言う仁は、天下の最高の親しみと不可分だと。天下で言う明は、天下の賢者を高い地位に就けることだと。この三至が全て実現されて、やっと王者はいくさが出来るようになる。だから仁とは人を愛するのがその最大で、智とは賢者を知るのがその最大で、賢明な政治とは、能ある者を官吏に取り立てるのがその最大だ。
土族で君主に仕えている者が、この三つを習得すれば、ただちに世界中が、王者の命令に共に従うに違いない。そもそも明王が攻め込む先は、必ず政道が退廃した国だ。だからその暴君を殺して政治を改め、その民をいたわってその財産を奪わない。
だから明王の政治は、欲しい時に降ってくれる雨のようなもので、降ればただちにきっと民は喜ぶ。だからますます広く施し、親しむ者はますます多く、これがすなわち、遠征軍が歓迎会に招かれると言う。」
孔子家語・訳注
なし
孔子家語・付記
ずいぶんとくたびれる訳だった。あり得ようもないおとぎ話をグダグダと書かれても、まさに後漢末風味の偽善である。お読みになった読者はもっと迷惑したかも知れない。ただし聞き手に曽子を選んだ、タネ本『大載礼記』の作文者のキャスティングは悪くない。うすのろ曽子はいかにもこうした偽善が大好きと思われるからである。