『孔子家語』現代語訳:賢君第十三(3)

孔子家語・原文

1

顏淵將西遊於宋,問於孔子曰:「何以為身?」子曰:「恭、敬、忠、信而已矣。恭則遠於患,敬則人愛之,忠則和於眾,信則人任之。勤斯四者,可以政國,豈特一身者哉!故夫不比於數而比於踈,不亦遠乎?不修其中而脩外者,不亦反乎?慮不先定,臨事而謀,不亦晚乎?」

2

孔子讀《詩》,于《正月》六章,惕然如懼。曰:「彼不達之君子,豈不殆哉!從上依世則道廢,違上離俗則身危,時不興善,己獨由之,則曰非妖即妄也。故賢也既不遇天,恐不終其命焉。桀殺龍逢,紂殺比干,皆是類也。《詩》曰:『謂天蓋高,不敢不局,謂地蓋厚,不敢不蹐。』此言上下畏罪,無所自容也。」

孔子家語・書き下し

1

顏淵將に西して宋於遊ばんとし、孔子於問うて曰く、「何を以て身を為さんか」と。子曰く、「恭、敬、忠、信而已矣。恭しからば則ち患い於遠ざけ、敬いたらば則ち人之を愛し、忠たらば則ち眾於なじみ、信あらば則ち人之に任す。斯の四者に勤まば、以て國を政む可し、豈に一身にかぎる者なる哉。故に夫れしばしば於比ば不し而踈ら於比ぶは、亦いに遠から不乎。其の中を修め不し而外を脩むる者、亦いにそむか不る乎。慮りて先に定め不、事に臨み而謀るは、亦いに晚から不る乎」と。

2

孔子詩を讀みて、正月六章て、テキ然として懼るるが如し。曰く、「彼のとおさ不る之君子は、豈に殆うから不哉。上に從い世に依らば、則ち道廢れ、上に違い俗を離るらば、則ち身危し。時善きに興ら不るに、己れ獨り之に由らば、則ち妖に非ざらば即ち妄と曰う也。故に賢き也、既に天に遇わ不らば、其の命を終え不るを恐れ焉。桀の龍逢を殺し、紂の比干を殺すは、皆な是の類也。詩に曰く、『天を蓋し高しと謂うも、敢えてはちぢま不んばあら不。地は蓋し厚しと謂うも、敢えてはぬきあしせ不んばあら不』と。此の言上下罪を畏れ、おのづから容るる所無き也」と。

孔子家語・現代語訳

1

論語 顔回 論語 孔子 説教
顔回がこれから西方の宋国に出かけるにあたって、孔子に質問した。「どうやって自分を躾けたらいいですか。」

孔子「腰を低くし、敬いの気持を忘れず、自分を偽らず、他人をだますな。腰が低ければ面倒ごとから遠ざかり、敬いの気持ちがあれば人に愛され、自分を偽らなければ人々が打ち解け合ってくれ、他人をだまさなければ人から頼りにされる。

この四つに励むなら、国でさえ治めることが出来るだろう。たかが自分の身一つが整うだけではない。

となると、身近な人と付き合わないで、縁遠い人と付き合うのは、何とも遠回りな事ではないか。自分の内面を整えないで、外面だけ取り繕うのは、何とも道理に外れたことではないか。くよくよと心配はするが、自分の取るべき態度を前もって決めておかず、その場になってどうしようかと考えるのは、何とも手遅れなことではないか。」

2

論語 孔子 不気味
孔子が『詩経』読み、正月のうたの第六章のところで顔が青ざめ、おどおどとおびえるかのようだった。そしてこう言った。

「いわゆる世に受け入れられない君子とは、何とも身が危ないことではないか。お上に従い世間に迎合すれば、決まって正しい道から外れてしまい、お上に逆らい世間から離れれば、決まって身が危なくなる。善が流行らない時代に、自分一人善でいようとすれば、間違いなくバケモノだのバカ者だのと言われる。

それでも賢者は、時代が自分に合っていなくても、その使命を果たさないでいるのを恐れる。夏の桀王が龍逢を殺し、殷の紂王が比干を殺したのは、みなその例だ。

この詩にこう歌う。”天はとても高いのに、背をかがめたくない、と言い張るわけにいかない。大地はとても厚いのに、抜き足で歩きたくない、と言い張るわけにいかない”と。これはつまりこういうことだ。天下の上から下まで、みなあらぬ罪で罰せられるのを恐れており、手間暇をかけてこしらえない限り、安心できる場所などどこにも無い、ということだ。」

孔子家語・訳注

1

顏淵:孔子の弟子で孔門十哲の一人、顔回子淵のこと。

宋:周に滅ぼされた殷の一族が、周に許されて立てた諸侯国。
論語 地図 周

2

正月六章:『詩経』小雅・正月の第六章。訳は目加田本を引用。

謂天蓋高、不敢不局。謂地蓋厚、不敢不蹐。
維號斯言、有倫有脊。哀今之人、胡為虺蜴。天は高くも、せくぐまり、地は厚くても、ぬき足すると。
こんな言葉の叫ばれるのも、まことに道理のあることだ。
哀しや今の民人は、虺蜴とかげのようにおびえている。

テキ然:恐れる。驚く。

懼:同じ「おそれる」でも、鳥が目をキョロキョロさせておびえるような恐れ方を言う。

龍逢:=関龍逢。夏王朝の大臣。伝説によると、桀王が政務を摂らずに淫らな遊びにふけっているのを諌め、殺されたという。

比干:殷の王族で、伝説によると、紂王が政務を摂らずに淫らな遊びにふけっているのを諌め、殺されたという。

無所自容也:解釈は二つあり得て、「自」を”自分”と解して、”自分の居場所がどこにもない”と訳せる。もう一つは「自」を”ひとりでに・自然に”と解して、”自然とそこに居られる場所がどこにもない”。こちらで訳したが、もちろん前者に解してもかまわない。

孔子家語・付記

1も2も、『説苑』敬慎編のコピペ。

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