『孔子家語』現代語訳:賢君第十三(2)

孔子家語・原文

1

子貢問於孔子曰:「今之人臣孰為賢?」子曰:「吾未識也。往者齊有鮑叔,鄭有子皮,則賢者矣。」子貢曰:「齊無管仲,鄭無子產。」子曰:「賜!汝徒知其一,未知其二也。汝聞用力為賢乎?進賢為賢乎?」子貢曰:「進賢賢哉!」子曰:「然。吾聞鮑叔達管仲,子皮達子產,未聞二子之達賢己之才者也。」

2

哀公問於孔子曰:「寡人聞忘之甚者,徙而忘其妻,有諸?」孔子對曰:「此猶未甚者也,甚者乃忘其身。」公曰:「可得而聞乎?」孔子曰:「昔者夏桀貴為天子,富有四海,忘其聖祖之道,壞其典法,廢其世祀,荒于淫樂,耽湎于酒;佞臣諂諛,窺導其心;忠士折口,逃罪不言。天下誅桀而有其國,此謂忘其身之甚矣。」

孔子家語・書き下し

1

子貢孔子於問うて曰く、「今之人臣、孰をか賢きと為す」と。子曰く、「吾未だ識らざる也。往者齊に鮑叔有り、鄭に子皮有り。則ち賢者矣」と。子貢曰く、「齊に管仲無く、鄭子產無きか」と。子曰く、「賜や、汝徒だ其の一を知りて、未だ其の二を知らざる也。汝聞くに、力を用いるを賢しと為す乎、賢きを進むを賢を為す乎」と。子貢曰く、「賢きを進むは賢き哉」と。子曰く、「然。吾れ聞くならく、鮑叔は管仲をとおし、子皮は子產を達すと。未だ二子之己之才にまさる者を達すを聞かざる也。」

2

哀公孔子於問うて曰く、「寡人聞くならく、忘れ之甚しき者、徙り而其の妻を忘れたりと。諸れ有るや」と。孔子對えて曰く、「此れ猶お未だ甚しき者ならざる也。甚しき者は乃ち其の身を忘る」と。公曰く、「得而聞く可き乎」と。孔子曰く、「昔者夏の桀は貴きこと天子為り、富むこと四海を有つも、其の聖祖之道を忘れ、其の典法おきてを壞り、其の世祀まつりて、淫樂于荒み、酒于耽りおぼる。おもねりの臣諂い諛い、其の心を窺い導く。忠の士は口を折り、罪を逃れんとして言わ不。天下桀を誅し而其の國を有つ、此れ其の身を忘るる之甚しきを謂う矣」と。

孔子家語・現代語訳

1

論語 子貢 問い 論語 孔子 居直り
子貢が孔子に質問した。「今の役人連中のなかでは、誰が偉いですかね。」
孔子「知らぬな。昔は斉に鮑叔、鄭に子皮がいて、まことに偉かったが。」
子貢「え? 斉には管仲、鄭には子産さまがいらしたでは無いですか。」

孔子「子貢よ。お前は偉さの一を知って、二を知らぬのだ。業績を残した者が偉いのか、偉い者を昇進させた者が偉いのか、お前はどちらだと聞いている。」
子貢「賢者を昇進させた人の方が偉いですねえ。」

孔子「その通りじゃ。鮑叔は管仲を出世させ、子皮は子産どの出世させたと聞いておる。しかし管仲も子産どのも、自分より偉い者を出世させたとは聞いた事がないな。」

2

論語 哀公
哀公が孔子に質問した。「ワシはこういう話を聞いたぞ。物忘れがはげしい男がおって、引っ越したが妻を忘れて置いてきてしまったと。そんなことがあるものかのう。」
孔子「まだはげしいとは言えませぬな。自分を忘れて、やっとはげしいと言えるかと。」

哀公「ほほう。その例を伺おうか。」

論語 孔子 キメ
孔子「オホン。むかし夏の桀王は、身分は尊く天子であり、富は莫大で世界を領有しておりましたが、偉いご先祖様が残した政治の原則を忘れ、そのおきてを破り、代々続いた祭祀を止め、淫らな楽しみにふけり、酒におぼれました。

その上おべっか使いが甘い話ばかり言い、気持ちを読み取って善からぬ方へと仕向けました。忠義の者は口を閉ざし、罪に落とし入れられるのを恐れてまじめな話をしませんでした。そこで天下がこぞって桀王を討伐し、国を手に入れたのです。

かように国を取られるほど自分を忘れて、やっとはげしい、と言われるのです。」

孔子家語・訳注

1

子貢:孔子の弟子で孔門十哲の一人、端木賜子貢のこと。

鮑叔:鮑叔牙。斉の桓公(位BC685-BC643)の家臣で、管仲の友人。桓公の即位を阻もうとした管仲を推薦し、桓公を覇者へと押し上げるきっかけを作った。

子皮:子産(?-BC522)が賢者であることを知って推薦し、名宰相へと押し上げた鄭の家老。孔子は子産と面識があり、鄭国滞在中に「まるで兄弟のように」(『史記』、下記)世話になったので尊敬していた。

聲公五年,鄭相子產卒,鄭人皆哭泣,悲之如亡親戚。子產者,鄭成公少子也。為人仁愛人,事君忠厚。孔子嘗過鄭,與子產如兄弟云。及聞子產死,孔子為泣曰:「古之遺愛也!」声公五年、鄭の相子産卒し、鄭人皆な哭き泣き、悲しむこと之れ親戚を亡えるが如し。子産者、鄭の成公の少子也。人と為り仁にして人を愛し、君に事えること忠にして厚し。孔子嘗て鄭を過り、子産与兄弟の云うが如し。子産死せりと聞くに及び、孔子為に泣きて曰く、「古之遺愛也」と。

論語 説苑 鄭子産鄭の声公五年(BC497)、鄭国の宰相だった子産が逝去した。鄭の人々は皆大声を上げ涙を流して泣き、その悲しみようは親戚を亡くしたようだった。子産は、鄭の成公の末に近い息子である。人となりは情け深くて人を愛し、主君には真心こめて鄭重に仕えた。孔子は以前鄭を通り過ぎ、子産と兄弟のように語り合ったという。子産が亡くなったと知らせを聞いて、孔子は静かにに落涙して言った。「昔気質の、情け深い方であったよ。」(『史記』鄭世家)

*哭は大声を上げてわんわん泣く、泣は涙を流して声を立てずに泣くこと。

2

哀公:位BC494-BC468。この『孔子家語』など儒者の作文では、孔子にお説教される役としてよく使われる、孔子晩年の魯の殿様。

諂諛:どちらも”へつらい”だが、諂は人を落とし穴にはめるようなへつらい、諛はくねくねと調子を合わせるようなへつらい。

折:ここでは(口を)「とざす」・「ふさぐ」と読むのもよい。折りたたむ、曲げる、くじく、定めるの語義から、さまざまな目的語を取り得る。

孔子家語・付記

1は『韓詩外伝』巻七、『説苑』臣術篇のコピペ。2は『説苑』敬臣篇のコピペ。

1は孔子とその一門の好きそうな話で、自分を出世させてくれる政治家を偉いと褒めちぎった。業績はどうでもよいわけで、統治される庶民にとっては迷惑な話。しか論語でたびたび「自分は無名だ」と子弟揃って嘆いているように、儒家には公共という概念が無い。

これは儒家に限らない話で、後世の儒者もそうでない中国人も、いわゆる公共なるものの私物化によって私腹を肥やすことしか考えず、今も考えていない。日本で中国古典や儒教を持ち上げる連中の多くにもそのニオイがあるので、訳者はその話を真に受けないことにしている。

ただ話を職業人生の設計に絞ると、一般的現象として、成功者の多くは努力を必要条件として持つが、努力したからと言って必ず成功するとは限らない。また運も成功の必要条件だが、閾値を超える程度まで強くないと発効せず、中途半端な運は努力同様、却って人を不幸にする。

孔子も子貢も、おそらくそれには気付いていただろう。それゆえの1である。

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