『孔子家語』現代語訳:弟子行第十二(7)

孔子家語・原文

孔子曰:「不克不忌,不念舊怨,蓋伯夷叔齊之行也。思天而敬之,服義而行信,孝於父母,恭於兄弟,從善而不教道,趙文子之行也。其事君也,不敢愛其死,然亦不敢忘其身,謀其身不遺其友,君陳則進而用之,不陳則行而退,蓋隨武子之行也。其為人之淵源也,多聞而難誕,內植足以沒其世;國家有道,其言足以治;無道,其默足以生,蓋銅鞮伯華之行也。外寬而內正,自極於隱括之中,直己而不直人,汲汲於仁,以善自終,蓋蘧伯玉之行也。孝恭慈仁,允德圖義,約貨去怨,輕財不匱,蓋柳下惠之行也。其言曰:『君雖不量於其身,臣不可以不忠於其君;是故君擇臣而任之,臣亦擇君而事之。』有道順命,無道衡命,蓋晏平仲之行也。蹈忠而行信,終日言,不在尤之內,國無道,處賤不悶,貧而能樂,蓋老來子之行也。易行以俟天命,居下不援其上,其親觀於四方也,不忘其親,不盡其樂,以不能則學,不為己終身之憂,蓋介子山之行也。」

孔子家語・書き下し

孔子曰く、「克た不忌ま不、舊き怨みを念わ不るは、蓋し伯夷叔齊之行い也。

天を思い而之を敬い、義しきにしたがい而まことを行い、父母於つかえ、兄弟於恭をなし、善きに從い而道を教え不るは、趙文子之行い也。

其れ君に事える也、敢えては其の死を愛ま不、然るに亦た敢えては其の身を忘れ不、其の身を謀りて其の友をわすれ不、君陳ねば則ち進み而之にはたらき、陳ね不らば則ち行き而退くは、蓋し隨武子之行い也。

其の人と為り之淵源もといたる也、多く聞き而いつわり難く、內はちて以て其の世をえるに足り、國家に道有らば、其の言や以て治めるに足り、道無くば、其のもだしや以て生くるに足るは、蓋し銅鞮伯華之行い也。

外は寬くし而內は正しく、自ら隱括じょうぎ之中ら於極まり、己をただし而人を直さ不、仁於汲汲たゆまずして、以て自らの終りを善くするは、蓋し蘧伯玉之行い也。

孝に恭に慈みに仁にして、德をまことにして義しきを圖り、ものみて怨みを去り、財を輕んじてとぼしから不るは、蓋し柳下惠之行い也。其の言うに曰く、『君は其の身於量ら不と雖も、臣は以て其の君於忠なら不る可から不。是れ君臣を擇び而之に任ね、臣亦た君を擇び而之に事うる故なり』と。

道有らば命に順い、道無からば命をはかるは、蓋し晏平仲之行い也。

忠を蹈み而信を行い、終日言いて、とが之內に在ら不、國に道無くば、賤しきに處りてうれえ不、貧しくし而能く樂むは、蓋し老來子之行い也。

行いを易えて以て天命を俟ち、下に居りて其の上をか不、其れ親しく四方於觀る也、其の親しきを忘れ不、其の樂しみを盡さ不、能わ不るを以て則ち學び、己れ身を終うる之憂いを為さ不るは、蓋し介子山之行い也。」

孔子家語・現代語訳

孔子は言った。

論語 孔子 説教
「自己主張をせず、時世に文句も付けず、昔の怨みを忘れたのは、たぶん伯夷叔斉兄弟の行いと言えるだろう。

天を恐れ敬い、正義に従い嘘をつかず、父母には孝行し、兄弟には親切にし、善事に心掛けたがそれを他人に説教しなかったのは、たぶん趙文子の行いと言えるだろう。

主君に仕えながら、命を惜しまず、かと言って向こう見ずにもならず、自分と同程度には友人の幸せを考え、君主に用いられるとよく働き、用いられないとさっさと引き籠もるのは、たぶん隨武子の行いと言えるだろう。

人間がもともともの知りでだまされにくく、人格が真っ直ぐでゆらぎがなく、生涯を自分らしく生き抜く事が出来、国に原則がある時には、その発言で国が治まり、無い時には、沈黙を守って危険から身を守れたのは、たぶん銅鞮伯華の行いと言えるだろう。

人付き合いが太っ腹だが自分には厳しく、人間のあるべき姿を極めようと努め、自己反省はするが人には反省を求めず、仁の情けを身につけようといつも励み、それで自分の生涯を美しく終わらせたのは、たぶん蘧伯玉の行いと言えるだろう。

孝行で親切で恵み深く憐れみ深く、自分の出来る出来ないに片寄りを無くして正義の実現をはかり、減税に励んで民の怨みを取り去り、太っ腹だがそれでも貧しくならないのは、たぶん柳下恵の行いと言えるだろう。

その言葉にはこうある。”主君が自分の利益を考えてくれなくても、臣下は真心で仕えなければならない。君主がよき臣下を選んで仕事を任せ、臣下がよき君主を選んで仕えるということは、それ無しでは実現できないからだ”と。

世の中に原則が通れば運命に従い、理不尽がまかり通るなら運命をじっと観察する(、それで危険から遠ざかる)のは、たぶん晏平仲の行いと言えるだろう。

真心に従って嘘をつかず、一日中話しても話の中に間違いが無く、国が無原則なら貧民街に引き籠もって余計な怒りから離れ、貧乏だろうと生活を楽しむことが出来るのは、たぶん老来子の行いと言えるだろう。

事あるごとに自分の行動を改めて天の定めに従い、不遇の中でも運のよい人を引きずり下ろさず、自分の目で天下を見回ったが、残してきた親しい人を忘れず、楽しいことはほどほどで止め、出来ない事は勉強し、どうやって生涯を送ろうかとくよくよしないのは、たぶん介子山の行いと言えるだろう。」

孔子家語・訳注

不克不忌:現在日本唯一の『孔子家語』完訳本である宇野本は、「克くせざるを忌まず」と読み、”自分には出来ないからと言って人を妬んだりせず”と解している。

伯夷・叔齊(斉):生活保護の申請に失敗して餓死した、中国古代のニートで兄弟。まじめに史料を読むとそうなる。儒教的には、殷を滅ぼそうとした周の武王に、臣下でありながら王を討とうとする不義を訴えたことになっている、伝説上の義人。詳しくは付記を参照。

孝於父母:下記する通り趙文子の母はともかく、父は殺されているのだから、これは作り話。

不教道:藤原本は「教えざる」と読んでいる。宇野本は「教不道」であるとし、「いわざるを教うる」と読んでいる。データの底本とされる四部叢刊初編・景江南圖書館藏明覆宋刊本では「不教」となっているから、中国哲学書電子化計画の誤植であるらしい。
孔子家語 弟子行21 誤植

しかし和刻本・太宰春台注『標箋孔子家語』寛政元年 江戸 嵩山房刊では「不教道」となっている。今はそれに従う。

趙文子:=趙武。BC597-BC591。晋国の門閥家老の一人で、名宰相。のちの趙国王室の祖。流浪の貴公子として知られ、母親を除く一族が皆殺しに遭う中からくも逃れ、のちに家を再興したと言われる。

隨武子:=士会。生没年未詳。晋の武将で政治家。楚を強大化させた荘王(孔子家語好生1参照)と同時代人で、それとの和平を図ったが果たせず、戦場では総崩れする晋軍の中でよく踏みとどまって撤退を助けた。戦後は宰相となり、『左伝』は春秋第一の名宰相と讃えた。

多聞而難誕:”よく人の話を聞いているから、だましにくい”。もし本章が史実とすると、「知る者は語らず、語る者は知らず」を孔子も承知していたことを示す。

「誕」は『学研漢和大字典』によると、むやみに引き「延」ばした「言」葉で、うそデタラメでっち上げのこと。「タン」という音を借りて、旦(隠れた日が地平にあらわれる)・タン(腹に隠れたたまごが外に出る、たまご)に通じ、”誕生”の意を持つようになったという。

つまり「妄誕」のように、原義は”でたらめ”だったことになる。

銅鞮伯華:=羊舌赤。生没年未詳。晋の公族の一人で、銅鞮を領地としたのでこう呼ばれた。戦陣で軍法を乱した悼公の弟を、魏絳が処刑して悼公が激怒したが、銅鞮伯華の計らいによって魏絳は処罰されず、かえって賞されたという。

隱括:=隠栝。

  1. 曲がった木・枝などに押しあてて、まっすぐにするための道具。「不恃隠括=隠括を恃まず」〔韓非子・顕学〕
  2. 直して正しくすること。

蘧伯玉:BC585ごろ-BC484以降。衛国の家老で、放浪中の孔子を屋敷に迎え入れた。

允:まこと。調和がとれて誠実なさま。穏やか。

柳下惠:BC720-BC621。孔子が生まれる70年ほど前に、魯国の司法官をつとめた。堅物として有名で、門限に遅れた少女と二人羽織して一夜を明かしたが、誰も怪しまなかったという。孔子家語好生6を参照。

衡:宇野本は「王粛注に”横なり。其の命を受けずして、隠居するを謂う”とある」と記す。『大漢和辞典』によると「標準を定めて、行うべき時は行う」と記し、本章を引用する。

晏平仲:=晏嬰。孔子と同時代人だが約一世代上の斉国の宰相で、孔子の政治主張を「バカげている」と評して、斉の景公による登用を取りやめにした張本人。ただし孔子はそれを恨まず、賢者として尊敬していた、という美談になっている。異説については下記。

老來(来)子:BC599-BC479。孔子と同時代の楚国の隠者で、孔子と面識があったという説もある。

介子山:=介子推。?-BC636。のちの晋の文公が放浪中に付き従い、一行が食糧に困って文公が飢えた際、自分の腿を切り取って食わせたという。のち帰国した文公が即位して、一行のそれぞれに褒美を与えたが、介子山はそこから漏れたので、母親と共に山に引き籠もった。

呼んでも出て来ないので、文公が山に火を付けていぶり出したがやはり出て来ない。火が消えてから山狩りしてみると、母親と共に焼け死んでいた。火を付けてから→山狩りをしたのはなぜだろう。どう考えても、文公は介子山にいなくなって欲しいと願っていたように思える。

論語 孔子 居直り 論語 晋文公
孔子「同じいにしえの覇者の中でも、晋の文公は小細工が多くてずる賢い。」(論語憲問篇16

孔子家語・付記

今回を含めた本篇全体が、『大載礼記』衛将軍文子篇のコピペ。

伯夷叔斉は殷周革命の際、周の革命軍の前に躍り出て、頭領の武王に「お前さんはろくでなしだ」と言いがかりを付けて注目を集め、演説を一席ぶったものの、太公望から「はいはいご立派ご立派、あっちへ行こうね」と慮外者扱いされて、タダ飯を食いそびれた貴公子の兄弟。
論語 伯夷叔斉 太公望呂尚

畑仕事も出来ず自活能力が無いから周にたかろうとしたのだが、追い払われて山にこもり、食うものが無くなって飢え死にした。その寸前には恨みがましい歌を作り、ちっとも「怨みを忘れ」ていない。儒者の狂信に付き合わず、史料をまじめに読むとこういう解釈も出来る。

孟子はこのように言っている。

論語 孟子
勞心者治人,勞力者治於人;治於人者食人,治人者食於人:天下之通義也。
心をついやす者は人を治め、力を労す者は人治めらる。人於治めらるる者は人をやしない、人を治める者は人於食わる。これ天下之通義也。働かず理屈をこねる才がある者が人を支配し、働く者は人に支配される。支配された者は人を養い、支配する者は人に養われる。これが古今変わらぬ、社会の正しいあり方であるぞ。(『孟子』滕文公上篇)

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