『孔子家語』現代語訳:弟子行第十二(4)

孔子家語・原文

美功不伐,貴位不善,不侮不佚,不傲無告,是顓孫師之行也。孔子言之曰:『其不伐,則猶可能也;其不弊百姓,則仁也。』《詩》云:『愷悌君子,民之父母。』夫子以其仁為大。

學之深,送迎必敬,上交下接若截焉,是卜商之行也。孔子說之以《詩》曰:『式夷式已,無小人殆。』若商也,其可謂不險矣。

貴之不喜,賤之不怒,苟利於民矣,廉於行己,其事上也,以佑其下,是澹臺滅明之行也。孔子曰:『獨貴獨富,君子恥之,夫也中之矣。』

孔子家語・書き下し

功を美くして伐ら不、位を貴くして善ば不、侮ら不おこたら不、告ぐる無きにも傲ら不るは、是れ顓孫師之行い也。孔子之を言いて曰く、『其の伐ら不るは、則ち猶お能くす可きがごとき也。其の百姓を弊さ不るは、則ち仁也』と。詩に云わく、『やわらたのしむ君子は、民之父母』と。夫子其の仁を以て大と為せり。

これ學ぶこと深く、送り迎えして必ずゐやあり、上の交り下のまじわり截るが若き焉るは、是れ卜商之行い也。孔子之に說くに詩を以いて曰く、「『たいらぎ式て已まば、小人の殆きこと無し』と。商の若き也、其れあやうから不と謂う可き矣」と。

之貴くして喜ば不、之賤くして怒ら不、まことに民みたりて、己を行ういさぎよく、其の上に事うる也、其の下を佑くるを以う、是れ澹臺滅明之行い也。孔子曰く、「獨り貴く獨り富めるは、君子之を恥ず、かれ也之に中れ矣』と。

孔子家語・現代語訳

(子貢は語った。)

論語 子張
業績を立派に挙げて誇らず、地位が高くなっても喜ばず、油断せず怠けず、声なき社会的弱者を馬鹿にしない。これがセン孫師子張の行いです。

孔子先生は彼についてこう言い表しました。「子張の謙虚は真似できるが、民に迷惑を掛けない点は、まさしく究極の人徳である仁の情けだ」と。『詩経』にもこう言います。「太っ腹なお貴族様は、民の父母」だと。先生は子張の仁について、大したものだと言いました。

論語 子夏
熱心に勉強し、人を送り迎えする態度が丁寧で、相手の身分にかかわらず付き合いにけじめがある。それがボク商子夏の行いです。

孔子先生は『詩経』を引用してこうお説教しました。「誰とでも公平に付き合っていれば、つまらない人間でも危ない目に遭わずに済む、と。子夏よ、お前のような者は、危ない目に遭わないと言ってよいな」と。

論語 澹台滅明
身分が高くなっても喜ばない、低くなっても怒らない。一々民の利益になるよう行動して、自分の取り分については控えめだ。上役に従って仕事をするのでも、部下の利益となるよう行動する。これがタン台滅明子羽の行いです。孔子先生は言いました。「自分だけ身分が高くなり、金持ちになるのは、君子たる者の恥じるべきことだ。彼はそのさだめにかなっている」と。

孔子家語・訳注

美功不伐:「美功にもほこらず」と読み下すのがお作法だが、SVO順の中国語で、「ほこる」の目的語が前に来る理由が無い。「立派な業績を挙げて」「そして誇らない」という、英語で言えばandで繋ぐべき表現で、「美功」は「不伐」の従属節ではあり得ない。

こんなでたらめを放置するから、漢学は世間から見放されたのだ。

無告:貧窮者・みなしご・老人など、自分の窮状を訴えるところのない者。

百姓:「ひゃくせい」とよんで、人々・民衆。戦後、教授連の脳みそが揃って真っ赤っかになった時代では、人民と訳さないと怒られた。古代史の研究なのに、中国共産党公認の用語を使わないと、本郷あたりにある某国立大学で、怒鳴られた覚えが訳者にはある。

およそ静かに言えば済む話で、あれは弁公室からいくらか貰っていたのか、それとも何かの病気だったのか。

愷悌君子:やわらぎたのしむ君主、徳の長大な君子、と『大漢和辞典』にあるが、何のことだか分からない。元ネタである『詩経』大雅・泂酌を、目方本は以下のように訳す。「にわたずみ」とは道の雨だまりのこと。「もたい」は酒樽。訳凝りすぎ。

泂酌彼行潦、挹彼注茲、可以餴饎。豈弟君子、民之父母 。
泂酌彼行潦、挹彼注茲、可以濯罍。豈弟君子、民之攸歸 。
洞酌彼行潦、挹彼注茲、可以濯溉*。豈弟君子、民之攸塈 。行潦にわたずみとおみ、みとりてここに注がば、またもちていいを蒸してむ。やすらけきわが大君は、民びとの父母。
行潦泂く酌み、挹みとりてここに注がば、またもちてもたい濯わむ。やすらけきわが大君は、民びとの帰するところ。
行潦泂く酌み、挹みとりてここに注がば、またもちて樽*を濯わむ。やすらけきわが大君は、民びとのいこうところ。

*四部叢刊初編毛詩では「溉」になっている。意味は”洗う”だと原注にある。

「やすらけきわが大君」では、ますますワケが分からないが、要するに太っ腹で鷹揚なお貴族様を言うのだろう。「徳」とは本来、そういう意味だ。

學(学)之深:「学の深き」と読んでもかまわない。ここでの「之」は、直前が動詞であることを示す記号で、意味内容を持っていない。ただしお作法のように「これを学ぶこと深く」と読んでしまうと、目的語の「之」と区別がつかないから、お作法には従わない。

式夷式已,無小人殆:元ネタは『詩経』小雅・節南山。目方本による該当部分の訳は以下の通り。

弗躬弗親、庶民弗信。弗問弗仕、勿罔君子。
式夷式已、無小人殆。瑣瑣姻亞、則無膴仕。政をみずから執らねば、民びとは信じはせぬ。調べもせず察しもせず、上を欺かせてはならぬ。
公平に正しくして、小人どもに危うくさせてはならぬ。取るにも足らぬ縁の者を、厚く用いてはならぬのだ。

余談ながらこの訳、例によって訳者目加田氏ではなく弟子の仕事では? 少しでも漢文が読める者なら、「厚く」などとは書くまい。

孔子家語・付記

今回を含めた本篇全体が、『大載礼記』衛将軍文子篇のコピペ。

論語 子張
論語を読み慣れた者としては、子張が控えめだと言われると首をかしげる。過ぎたるはなお及ばざるが如しの「過ぎた」者が子張であり、何かとやり過ぎるので春秋時代の政治家には向かず、学者にしようと孔子が考えた形跡がある。

澹台滅明は、おそらく実在の人物ではなく、古い文章を後世の儒者が読めなくなって、人名ではない文字列を人名と勘違いして合成された人物だろう。「見晴らし台・目が見えなくなる」なんて名前、あるものですか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)