『孔子家語』現代語訳:致思第八(4)

孔子家語・原文

子路問於孔子曰:「管仲之為人如何?」子曰:「仁也。」子路曰:「昔管仲說襄公,公不受,是不辨也;欲立公子糾而不能,是不智也;家殘於齊,而無憂色,是不慈也;桎梏而居檻車,無慚心,是無醜也;事所射之君,是不貞也;召忽死之,管仲不死,是不忠也。」孔子曰:「管仲說襄公,襄公不受,公之闇也;欲立子糾而不能,不遇時也;家殘於齊而無憂色,是知權命也;桎梏而無慚心,自裁審也;事所射之君,通於變也;不死子糾,量輕重也。夫子糾未成君,而管仲未成臣,管仲才度義,管仲不死束縛而立功名,未可非也。召忽雖死,過於取仁,未足多也。」

孔子適齊,中路聞哭者之聲,其音甚哀。孔子謂其僕曰:「此哭哀則哀矣,然非喪者之哀也。驅而前!」少進,見有異人焉,擁鐮帶索,哭音不哀。孔子下車,追而問曰:「子何人也?」對曰:「吾、丘吾子也。」曰:「子今非喪之所,奚哭之悲也?」丘吾子曰:「吾有三失,晚而自覺,悔之何及!」曰:「三失可得聞乎?願子告吾,無隱也。」丘吾子曰:「吾少時好學,周徧天下,後還喪吾親,是一失也;長事齊君,君驕奢失士,臣節不遂,是二失也;吾平生厚交,而今皆離絕,是三失也。夫樹欲靜而風不停,子欲養而親不待。往而不來者、年也;不可再見者、親也。請從此辭。」遂投水而死。孔子曰:「小子識之!斯足為戒矣。」自是弟子辭歸養親者十有三。

孔子謂伯魚曰:「鯉乎!吾聞可以與人終日不倦者,其惟學焉。其容體不足觀也,其勇力不足憚也,其先祖不足稱也,其族姓不足道也;終而有大名,以顯聞四方,流聲後裔者,豈非學者之效也?故君子不可以不學,其容不可以不飭。不飭無類,無類失親,失親不忠,不忠失禮,失禮不立。夫遠而有光者、飭也;近而愈明者、學也。譬之污池,水潦注焉,萑葦生焉,雖或以觀之,孰知其源乎?」

子路見於孔子曰:「負重涉遠,不擇地而休;家貧親老,不擇祿而仕。昔者由也事二親之時,常食藜藿之實,為親負米百里之外。親歿之後,南遊於楚,從車百乘,積粟萬鍾,累茵而坐,列鼎而食,願欲食藜藿,為親負米,不可復得也。枯魚衘索,幾何不蠹;二親之壽,忽若過隙。」孔子曰:「由也事親,可謂生事盡力,死事盡思者也。」

孔子家語・書き下し

子路孔子於問いて曰く、「管仲之人と為りや如何?」と。子曰く、「仁也」と。子路曰く、「昔管仲襄公に説きたれど、公受け不。是れ弁ぜ不る也。公子糾を立てんと欲し而能わ不、是れ智なら不る也。家斉於残り而憂う色無し、是れ慈なら不る也。桎梏せられ而檻車に居れども、慚ずる心無し、是れ醜無き也。射たる所之君に事うる、是れ貞なら不る也。召忽之に死せども、管仲死せ不、是れ忠なら不る也」と。孔子曰く、「管仲襄公に説きて襄公受け不るは、公之闇き也。子糾を立てんと欲し而能わ不るは、時に遇わ不る也。家斉於残り而憂う色無きは、是れ権命を知る也。桎梏せられ而檻車に居れども、慚ずる心無きは、自ら裁きて審らかなれば也。射たる所之君に事うるは、変於通じたる也。子糾に死せ不るは、軽重を量れば也。夫れ子糾は未だ君成らず、し而管仲未だ臣成らず。管仲の才、義を度るなり。管仲死せ不して束縛せられ而功名を立つるは、未だ非をなす可からざる也。召忽死すと雖も、仁於取るに過ぎたり。未だ多とするに足らざる也」と。

孔子斉に適き、路中ばで哭者之声を聞く。其の音甚だ哀し。孔子其の僕に謂いて曰く、「此の哭くや哀しみ則ち哀しき矣、然るに喪う者之哀しみに非ざる也。駆け而前め」と。少し進みて、見れば異なる人有り焉。かまを擁きて索を帯め、哭音哀しから不。孔子車を下り、追い而問いて曰く、「子何人なる也」と。対えて曰く、「吾れ、丘吾子也」と。曰く、「子今喪之所に非ず、奚んぞ之を哭くの悲しき也」と。丘吾子曰く、「吾三つの失い有り。晩くし而自ら覚るも、之を悔いて何ぞ及ばん」と。曰く、「三つの失いは得て聞く可き乎。願わくば子吾に告げよ、隠す無き也」と。丘吾子曰く、「吾れ少き時学を好めり、徧く天下を周り、後還りて吾が親を喪う、是れ一つの失い也。長く斉君に事うるに、君驕り奢りて士を失い、臣の節を遂げ不、是れ二つの失い也。吾平生交りを厚くし、し而今皆離れて絶ゆ。是れ三つの失い也。夫れ樹は静かならんと欲し而風停ま不、子は養わんと欲し而親待た不。往き而来たら不る者は、年也。再び見ゆる可から不る者、親也。請う此の辞に従わん」と。遂に水に投み而死せり。孔子曰く、「小子之を識せ。斯れ戒め為るに足る矣」と。是れ自り弟子、辞げて帰りて親を養う者十有三あり。

孔子伯魚に謂いて曰く、「鯉乎、吾れ聞くに、以て人を与に終日倦ま不る可き者は、其れ惟だ学び焉と。其の容体は観るに足ら不る也。其の勇しき力は憚るに足ら不る也。其の先祖は称えるに足ら不る也。其の族姓は道うに足ら不る也。終り而大名有り、以て四方に顕かに聞こゆ。後裔に声の流るる者、豈に学者之効に非ざる也。故に君子は以て学ば不る可から不。其の容は以てつつしま不る可から不。飭ま不らば類い無く、類い無からば親しむを失い、親しむを失わば忠なら不、忠なら不らば礼を失い、礼を失わば立た不。夫れ遠くし而光有る者は、飭み也。近くし而明のまさる者は、学也。之を污き池に譬えんか、水のひたし注ぐ焉,おぎ葦生え焉,或いは以て之を観ると雖も、孰んぞ其の源を知らん乎」と。

子路孔子於見えて曰く、「重きを負いて遠きを渉らば、地を択ば不し而休む。家貧しくして親老ゆらば、禄を択ば不し而仕う。昔者由也二親に事うる之時、常あかざまめ之実を食らう。親の為に米を百里之外に負う。親歿して之後、南は楚於遊ぶに、従う車百乗、積みたる粟は万鍾、茵を累ね而坐り、鼎を列べ而食らう。願いて藜藿を食らわんと欲し、親の為め米を負わんとするも、復た得る可から不る也。枯れし魚の索を衘えて、幾何かむしばまれ不る。二親之寿、忽ちたるは隙を過ぐるが若し」と。孔子曰く、「由也親に事うるに、生けるに事うるに力を尽くし、死して事うるに思いを尽くす者と謂う可き也。」

孔子家語・現代語訳

子路「管仲の人柄はどうでしょう。」
孔子「仁者だ。」

子路「かつて管仲は斉の襄公*に意見を説きましたが襄公は聞きませんでした。弁舌の才がありません。公子糾を国公に立てようとして失敗しました。知謀がありません。家族を斉に残しましたが心配しませんでした。慈しみの心がありません。捕らえられて檻の車に乗せられましたが、恥じませんでした。いさぎよくありません。自分が射た斉の桓公に仕えました。節操がありません。召忽は殉死しましたが管仲は死にませんでした。忠義ではありません。」

孔子「襄公に説いて聞かれなかったのは、襄公がアホウだったのだ。公子糾を立てられなかったのは、時の運だ。家族を心配しなかったのは、権力の重さを知っていたからだ。捕らえられて恥じなかったのは、どうしてこうなったか自分でよく知っていたからだ。射た桓公に仕えたのは、時の変化に応じたのだ。殉死しなかったのは、何を優先すべきか知っていたからだ。

そもそも公子糾はまだ国公でなかったし、管仲は斉の家臣ではなかった。管仲の才が、何が正しいかを見分けたのだ。管仲が死なずに縛られて功績を立てたのは、良いか悪いかまだ決まらない。召忽は殉死したが、仁者になろうとするにもほどがある。立派だと言うには足りないね。」

孔子が斉に行き、途中で泣き声を聞いた。その声ははなはだ悲しげだった。孔子がお供に言った。「とても悲しい声だが、葬儀の悲しみには聞こえない。行ってみよう、急げ!」少し進むと、異様な人が鎌を抱きしめ、腰には帯の代わりに縄を締めている。孔子は車を降りた。

孔子「あなたはどなたですか。」「私は丘吾子と言います。」
孔子「どうもお弔いではないようですが、どうしてそんなに悲しく泣くのです?」
丘吾子「私には三つ失敗がありまして、やっとそれに気付いたのですが、もう遅いのです。」

孔子「その失敗をお聞かせ頂けますか。隠さずに。」
丘吾子「私は若い頃から学問を始めました。天下を巡って勉強したのですが、帰ってみると親は死んでいました。これが第一です。

長く斉公に仕えましたが、殿は無道なお方で仕えきれず、家臣としての筋を通せませんでした。これが第二です。また私は普段から心を尽くして友達と付き合ってきましたが、今はみんな離れて行ってしまいました。これが第三です。

木が静かに立っていたいと願っても、風は容赦なく吹き付けます。子は親を養いたいと願っても、親は待ってくれません。過ぎ去って帰らないのは時間です。会いたくても二度と会えないのは親です。どうかそっとしておいて下さい。」と言って川に身を投げてしまった。

孔子「諸君、今の話を書いておきなさい。戒めとするには十分だ。」
その結果、孔子にいとまごいをして帰郷し、親を養った弟子が十三人出た。

孔子が一人息子の伯魚に言った。「鯉よ、一日中怠けてはいけないものは学問だと言う。学問がなければ、外見は見るに堪えない。勇気があっても恐れるに足りない。先祖も褒めるに足りない。親族も語るに足りない。学問をして名声を得て、やっと四方に名が轟くのだ。

子孫に至るまで賞賛されるのは、学者の特権と言っていい。だから君子は学ばねばならない。立ち居振る舞いは慎まねばならない。慎まないと同類が寄ってこない。寄ってこないと友達が出来ない。友達がいないと忠義を実践できない。忠義でないと礼法に外れる。礼法に外れたら、それはもう人ではない。

遠くから見ても光り輝くのは、慎みだ。近寄って一掃光り輝くのは学問だ。薄汚い池にたとえようか。水が溜まっていて、草ぼうぼうで、これを覗いて見ても、わき出すみなもとが分からないようなものだ。」

子路が孔子に会って言った。「重い荷物を背負って遠くに行くなら、場所を選ばずに休み、家が貧しくて親が年老いたら、えり好みせずに宮仕えをする。昔私は両親に仕えていたとき、野のアカザや豆の実を取って食べていました。親のために百里の道を米を背負って運びました。

所が親が亡くなった後、南方の楚国に行ったときには、車百乗を従え、積んだアワは万鍾、座布団を重ねて座り、かなえを並べて豪勢な食事を摂りました。もう一度アカザを食べよう、親のために米を背負おうと願っても、もう二度と出来はしません。

干し魚を縄でぶら下げておいても、いつまで虫が食わずにいられましょうか。両親の寿命というものは、戸の隙間を過ぎ去るようなものです。」
孔子「子路は親御さんが生きている間は力を尽くし、亡くなってからは思いを尽していると言っていいな。」

孔子家語・訳注

襄公…?-BC686。在位BC697-BC686。斉の国公。管仲より没年が41年早い。『史記』によれば暴君で、来訪した魯の桓公を殺し、その夫人を犯した。それを見た斉公室の諸公子が斉を逃げだし、その一人公子糾は魯に逃亡して管仲と召忽がそのお付きに付いた。

孔子家語・付記

1・2・4は劉向『説苑』のコピペ。3も『説苑』の焼き直し。4は『韓詩外伝』にも同じ話がある。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)